木曜日, 2月 28, 2013

保育において「遊び」「ムダ」が必要な理由(松本)


広島県三次市と、鹿児島市保育園協会から「現代と保育」での連載をご縁に声をかけていただき、立て続けに講演に出かけてまいりました。
私の知らないところで、原稿を丁寧に読んでいただいているみなさんがいる!と思うと張り切って準備し臨むのですが、何と言いますか、張り切りすぎると空回りしますね。もし、十分お伝えできていなかったら、ごめんなさい。力不足をお詫びします。次、頑張りますね。

さて、どちらの講演でもさわりは、以前、大学メールマガジンに書きました拙文「乳幼児期の豊かさとしての“ムダ”」を引用してみました。
話の途中で、またその前後に現場で奮闘されている先生方からあれこれ楽しい話を伺いながら、そこでふれている、保育においてはなぜ「ムダ」を大切にする必要があるかという問題を改めて考えてみました。

ふと思い浮かんだのは、先日私の所属先である、香川大学教育学部幼児教育コースの卒業研究発表会の講評で話した、研究成果は書き手それぞれのもののようにみえるけれど、それは本当は、次に続く人たちへの贈り物である、というコメントです。
そのときは、学生達の発表を聞きながら何の気なしに口をついたのですが、今振り返ってみれば、このことは何のために保育をするのか、という話とも結びつく気がします。

保育や教育は、何のために必要なのでしょうか。
ふつうの答えは、もちろん、当該の子どものため、なのですが、少し見方を変えれば、それは子どものためを超えて、私たちの社会の未来のために行う営みとして考えてもよいように思うのです。

講演の前に、噴煙立ち昇る桜島に案内いただき、大噴火によってできた、溶岩流の跡をみました。
近いうちに訪れてほしくないけれど、地球の歴史を考えるといつかは訪れるはずのその日。
大人の言うとおりに、右向け右で同じ方向へ向かう子どもを育てれば、大いなる力を前に私たちの社会は滅んでしまうかもしれません。

もちろん、保育や教育は、その時点でよかれ、ベストと思われる方法で子どもと向き合う営みのはずですが、人間は生きていく上で、その判断を間違うこともあります。それは、これまでの歴史の中に、既に物語られているはずです。
いっぽうでこれまでに、大人が指し示す方向・方法だけではなく、自分で考え、時にそれと異なる方向・方法を目指し、編み出せる子どもがいたことも確かでしょう。そのおかげで、ヒトの社会は大災害をも乗り越え、ここまで引き続いてきたのですから。

大人の示す規範に聞き分けよく従うだけではなく、自ら判断し、クリエイティヴにふるまうこと。
保育において遊びやムダが大切であるのは、そんな理由とも深く関連すると感じました。

歴史を尊重し、未来に向かうとは、自然への畏怖との関係で語るべきものと思います。
考えるきっかけを与えていただいた先生方、ありがとうございました。

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