12/31/2013

「食」が広げる豊かな保育(松本)

  2013年もまもなく終了。
  今年の締めは、12月1日に出かけた「全国保育所給食セミナー」のことをちょっぴり、書きたいと思います。

  食の都・京都にて、保育者と給食担当者の双方にいらしていただいた前でお話ししたのは「保育の力は食によって深まり、食の力は保育によって広がる」ということでした。
  「ともに食べる」ことでヒトはちょっとほっこりしたり、気持ちが落ち着いたり、笑顔になれたり……。
  緊張する初対面の場ではお茶を出したり、もっと話したい時は「まあ、ちょっと一緒に食事でも」と誘ったりするのも、きっとヒトが、歴史を経て生み出した知恵のひとつなのでしょうね。
  そんな、日常に埋め込まれている所作でありながら、特別感がある「食」の場面は、子どもたちにとって特別な思い出に残る経験と結びつきやすいのではないでしょうか。その姿を目にすることで、保育者はまた、普段とは異なる子どもの姿を発見できるかもしれません。つまり食と保育がつながる魅力は、「おいしく食べる」はもちろん、それを越えた明日、そしてあさっての保育を、より豊かにつくる手がかりを提供する点にこそあるのでしょう。

  大泣きしている子が、だっこされて給食室の前にでかけると、ふと気分が変わる。
  子育ての初期、「食」の心配を遠く離れた専門家にいきなり相談することはハードルが高すぎるけれど、身近にいて、いつも声をかけてくれる給食の先生には、ちょっと話してみようかな、と思える。
  ヒトを介して、ヒトらしい学びを成り立たせていくまっただ中の時期である乳幼児期に、給食室がすぐそばにある保育が保障されることの意義は、想像以上に大きいものだと感じます。

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  2013年。私個人としては、保育と芸術士、保育とミュージアム、そして保育と給食などなど、いくつかの大切な出会いを土台に、保育と子どもの明日、そしてあさってをより豊かにしうるだろう、さまざまなつながりを考え始めた年でもありました。
  キーワードである「日常」と「非日常」をベースにしつつ、2014年も引き続き考え、研究を進めていきたいと思います。

  旧年中は大変おせわになり、ありがとうございました。
  みなさま、よい年をお迎えください。
  新年もよろしくお願いいたします。

11/19/2013

「仲間とともに考える」五歳児保育をどうつくるか(松本)

次のエピソード。香川・こぶし花園保育園の、ある年の5歳児クラスでのできごとです。
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 園の近所にある障害児通園施設「タンポポ園」によく遊びに行かせてもらう5歳児めろん組。今年度も6月から、月に1度の割合でお邪魔させてもらっています。
 運動会前の9月のある日、玉入れをしました。保育者が手伝うというハンディをつけた結果、勝ったのはタンポポ園の子どもたち。めろん組の子どもたちは大泣きしたり怒ったり。悔しさのあまり、みんなが帰る段になっても「もう帰らんっ!」とすねて声を上げる子もいました。障害を持っているタンポポ園の子に対してでも、勝負事になったらこんなに熱いんか……と担任も驚くほどです。
 運動会も終わった10月のその日、前回に起こったそんなことはすっかり忘れてタンポポ園に再び遊びに行きました。そんなめろん組の子どもたちに対し、タンポポ園の保育者は開口一番「今日は玉入れしましょうか!」と提案します。「???」「あぁー?」とめろん組の子どもたちも、担任も驚きました。
 はじめは、めろん組だけで2組に分かれて玉入れをしました。次にいよいよ、タンポポ園の子どもたち対めろん組の子どもたちの番です。そこでめろん組から「タンポポ園の子も同じヤツ(条件)でして」と声が上がり、大人の助けなし、両者同じ条件で玉入れ対決をすることにしました。
 結果は、めろん組のみんなの勝ち。
 いっぽうのタンポポ園のみんなは、1コも入らなかったのです。

 それを見て、静かになっためろん組の子どもたち。
 しばらくすると声が上がり始めました。「じゃあ、箱を先生が持って、その中に入れることにして」「でもちゃんと揺らしてよ」と子どもたち。「こう?」とタンポポ園の保育者。「ちがう! もっとこう歩いたりするんや」「わかった。こうやね。」「先生たちは、手伝ったらいかんよ!」「わかった!」と話が進んでいきます。
 そうやって自分たちでルールを決め、納得したうえで、改めて玉入れに臨みました。
 めろん組は普通のカゴで、タンポポ園の子どもたちは、保育者のもつ箱で。
 結果は、僅差でついにめろん組の勝ち。めろん組のみんなは、大喜びで帰路についたのでした。
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 どうすべきかを大人が投げかけるのではなく、5歳児同士で考え合うプロセスと結論を信頼するまなざしのもとでめばえたものは何か。
 雑誌『現代と保育』(ひとなる書房)87号連載に、上記のエピソードも含め、表題のタイトルでまとめました。
 よろしければ、お読みいただけると嬉しいです。

11/09/2013

保育者間の“信頼”によって切り拓かれる子どもの可能性(松本)

 先日、香川県の幼児教育支援員という仕事で、香南こども園(高松市)に出かけ、4歳児の保育を見せていただき、園内研修にお邪魔してきました。
 香南こども園は、2012年にスタートした、高松型の「こども園」の一つ。
 幼児の各クラスには幼稚園籍と保育所籍の子どもがおり、保育士と幼稚園教諭が、ともにクラス担任として保育に携わっています。小学校風に言えば、チームティーチングの形式です。

 この日の主活動は、ホールでのグループ対抗のゲーム。
 ゲーム前に行う遊びをグループ毎に選び、ホールに移動……となるかと思いきや、1つのグループは意見がまとまらず、保育室に取り残されてしまいました。
 子どもは5人。「股くぐり」がしたい子が4人。「マット押し」がしたい子が1人。
 この日はサブの役割をしていた、B保育者がそばについて話し合いです。
 それぞれの思いを改めて確認したところ、マット押しを主張する子に向けて「(意見が)1人になった!」と口にしたPちゃん。
 それを制しつつ「(マット押しがしたい)Qくんの気持ちもあるよ」と問い直すB保育者。
 聞けばQくん「この間くぐり抜けしたから、今日はマットにする」と。
 なるほどそれもごもっとも。話し合いは続きます。
 それぞれ、一生懸命自分の思いを言葉にして伝える子どもたち。ふと思い立って「(股くぐりの)トンネル、どうしてもしたいん?」と自分から仲間に問いかけてみたり……。
 でも、ホールに行った友だちの歓声が遠くから耳に入る中、早く行きたい思いもあって、決めきるのはちょっと難しかったようです。しばしの後、「他のチームが何をしているか見てこようか」とB保育者に気持ちを切り替えてもらい、続きはホールで、ということになったのでした。

 多数決やじゃんけんで決めれば、計画にそってスムーズに実践は進んだことでしょう。 研究保育で、私をはじめ観覧者が多々いる場。保育者としてはきれいに納めたくなっても無理のない状況だと思います。
 でも、そこで子どもたちについていたB保育者は、そうはしませんでした。時間をかけても自分の思いを言葉にして、互いに考え合うことがこの子どもたちには必要である、という思いが、B保育者の中ではっきりしていたからこその働きかけだったのでしょう。

 さて、ここでの実践を成り立たせたポイントは何でしょうか。その一つは、B保育者の抱く明確な子ども像にあることはもちろんでしょう。が、それに加えもう一つ忘れてはならないのは、この日主担任だったA保育者との関係ではないかと思います。2人の間で、育みたい子ども像が共有され、互いの関わりを信頼し合えている関係が、このような援助を可能にしたのだろうということです。

 もし、B保育者が、子どもたちではなく「事前の計画通りすすめること」が気になっていたら、この場で時間をかけ、話し合って決めようとするプロセスを支えることは難しかったでしょう。また、仮にA保育者1人のクラスであれば、他の4つのグループを残しながら、1つのグループの話し合いに十分に付き合って、子どもの言葉と思いを受けとめきることもまた、難しいのが現実かとも思います。
 アイコンタクトを交わし、先にホールへと移動したA保育者からの「今、このグループの子たちに、時間をかけて言葉を紡ぎ、考え合うプロセスを保障してあげたい」という思いが伝わったからこそ、B保育者はじっくりとこのグループに付き合うことができたのでしょう。

 実際の話し合いで子どもたちが決めきれなかったのは、頭の中で考えることばを使い始めたばかりの4歳児ゆえの発達的な限界もあったことと思います。とはいえ子どもたちには、話し合いで実際に決められたか否か以上に、このような場を体感できたこと自体が、これから自らの思いをことばにして、仲間との間で折り合いをつけながら考えていく土台となる、ひとつの大きな財産となったのではないでしょうか。
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 ところで、このグループ。かわいそうに。この日、本番のゲームでは1度も勝つことができませんでした。
 負けたらとてもくやしい。入れ込んでいるからこそ、怒ってすねたくもなる。
 でも、それを言葉にすることは、くやしかった自分の思いとちょっぴり向き合い、次につなげていく力になる。
 それは、葛藤する思いに共感し、信頼してくれる誰かがそばにいるからこそ可能になるのでしょう。

 葛藤しているからこそ、言葉にするには時間がかかることもある。
 欠けている部分ではなく、歩み出そうとする子どもの姿を信頼し、背中を押せる保育実践は、1人の力を越えて、保育者間の“信頼”が土台となったときにより豊かに育みうることを改めて学ぶことができました。
 ありがとうございました。これからの子どもたちの姿が楽しみです。






10/26/2013

『小さなこどもの観覧日』終わりました(松本・松井・常田)

 前回のエントリーにて紹介させていただいた、香川県立ミュージアムでの企画『小さなこどもの観覧日』(10/21開催)が無事終了しました。
 乳幼児×日本美術、という、これまでほとんど耳にしたことのない組み合わせに、県立ミュージアムと大学、地域NPOのコラボレーションで挑戦するということで、準備にあたった私たち自身、ふたを開けてみるまでどうなることやら……という思いもありました。
 しかし、当日子どもたちが見せてくれた姿は、それをよい意味で裏切ってくれるものでした。

 器や切子、かんざしを前に言葉がはずむ子どもたち。気づけば引率や、取材に来たはずの大人まで、しぜんと子どもたちに話しかけている姿があちこちにありました。
 秘密のアイテム「じろじろめがね」を手に自ら「笑っているヒト、探そう!」としゃべり合って、屏風に向かって思わず駆け出さんとする子どもたち。
 「能動的鑑賞」というスタイルは、ルーブルをはじめとする世界のミュージアムでは積極的に取り組まれている形式ですが、作品そのものと向き合えるちょっとした“しかけ”さえあれば、いっけんかけ離れて見える「乳幼児」と「日本美術」の間にも十分、橋を架けることができることを、当日の子どもたちの姿に改めて教えてもらったように思います。

 誰かがそういったからではなく、そのものとの関係を前に、自分が好きなものを「好き」と感じる/言えるように。それがこの先、子どもたちが生きていくうえで、自らの頭で主体的に考え、判断していく礎となるように。
 これを一つのスタートに、これからも子どもたちに「あさって」へのまなざしを育めるような取り組みを続けていきたいと思います。

 関係・協力いただいた全ての皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

#当日の様子を、四国新聞、RNC西日本放送、RSK山陽放送をはじめ、いくつかのメディアに紹介いただきました。ありがとうございました。
 詳しくは、リンクをごらんください。

10/12/2013

小さなこどもの観覧日@香川県立ミュージアムが開催されます(松本・松井・常田)

 10/5より、香川県立ミュージアムにて「たのしむ日本美術:サントリー美術館コレクション」というタイトルで特別展(瀬戸内国際芸術祭2013連携事業)が開催されています。
 その関連事業として、きたる10/21に開催されるのが、ミュージアムの休日を利用した「小さなこどもの観覧日
 乳幼児が初めてのミュージアム&日本美術を「楽しい!」と思えるようなヒミツのしかけが、「もてなす」「祝う」「愛でる」「しつらう」「装う」の5つのコーナーに分けて、たっぷりと準備されたイベントです。乳幼児×日本美術の組み合わせは、全国的にも珍しいのではと思います。

 特別展のテーマは「生活の中の美」
 「日本美術」「古美術」等と耳にすると、なんだか遠いところのものに聞こえてくるかもしれませんが、 それはもともと生活の中にあったもの。
 そんな「生活の中の美」に触れることで、子どもたちがそれぞれ、自分の好きなものを見つけ、楽しめるような時間となることを願って、ただいま香川県立ミュージアムと、保育所等への「芸術士派遣事業」を展開するNPO法人アーキペラゴ、そして私たちの共同作業で鋭意準備中です!

当日のプレゼント(アーキペラゴ太田さんの力作!)をちょっと公開

 休日会館事業につき、この日は事前申し込みによって無料で観覧できます。
 観覧希望の子どもたち&保護者はまだまだ募集中です。
 申し込み/問い合わせは、香川県立ミュージアムまで。
 みなさんとお目にかかれるのを楽しみにしております!

9/09/2013

四歳児クラスでおとながあそびを「しかけ」る意味(松本)

 暑さに負けたかのように、更新の間がすっかり空いてしまいました。
 少しずつ再開したいと思います。まずは、この間に書いたものの紹介から。
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 雑誌『現代と保育』(ひとなる書房)の最新号(86号 7月刊行)では、連載『実践研究』にて『四歳児クラスでおとながあそびを「しかけ」る意味』のタイトルで、愛知県春日井市・第2そだち保育園の保育実践を紹介させていただきました。
 保育歴3年目の若手保育者が中心になって、絵本『11ぴきのねこ ふくろのなか』の世界へと誘うしかけが子どもたちの日々の中に埋め込まれることで、子どもたちがそこにぐんぐん引き込まれていく様子が伝わってきます。

 「ファンタジー遊び」「ほんと?遊び」などと称されるこの種の保育実践は、保育者の子どもたちに向けた積極的な働きかけがあってはじめて成立するという意味で、「保育ならでは」の経験を子どもたちに提供できる実践だと感じます。いっぽうで、保育者が「世界」をつくり込みすぎると、子どもの思いとの間に乖離が生まれることも……。
 今回の実践の魅力は、保育者がよい意味で迷い、子どもの様子を見ながら試行錯誤したことで、必要以上の「しかけ」にならず、子どもたちの楽しさを引き出し、膨らませることに成功したという点にあるのではないかと感じました。

  『現代と保育』は、年3回のペースで刊行されます(次号は11月)。
 明日の保育、あさっての保育のヒントとなる、興味深い記事がたくさん載っている雑誌ですので、よろしければ、ぜひお読みいただけると嬉しいです!

7/10/2013

保育所と小学校―「ハレ」の場としての連携活動(松本)

 先日、丸亀市立富熊保育所にて、小学校と保育所の連携交流活動を見せていただく機会がありました。
 隣の富熊小学校から訪れた2年生と5歳児が一緒に取り組んだのは、夏野菜を使ったピザクッキング。夏野菜は、キュウリ、なすび、トマト、ピーマンなど。保育所と小学校それぞれで子どもたちが育て、前日までに収穫しておいたものです。

 みんなで歌を歌い、先生から作る手順の説明を受けた後、5歳児と2年生の混合グループそれぞれでさっそくクッキング開始。ピザシートへソースを塗り、野菜やチーズのトッピングをします。口では「なすび、食べれんのや~」等々言う子がちらほら見られながらも、活動自体に後ろ向きな子どもは一人として見あたりません。

 トッピングが終わり、ピザを焼いている間は「そうめんにゅうめんひやそうめん」ほかの触れ合い歌遊びをして待ちます。5歳児はともかく、気持ちは少し照れながらも、体は遊びにぐっと引き込まれていくところが2年生の可愛いところです。

 いよいよ、ピザが焼けました。しかしそれを切り分ける段で一苦労。4~5人ほどのグループでみんなが納得するように分けるにはどうしたらよいか。紙上で割り算すれば、同じ大きさで簡単に割れる。でも、実際には同じように分けることはとても難しい……。なかなか切れないピザカッターを手に苦闘する子どもたちからは、たくさんの小さな物語が生まれました。
 そうだ! 自分に割り当てられた大きいピースをさらに2つに分ければ、2回食べられる楽しみがある!……うんうん、そうだよね。そのアイデアをもらった5歳児、さっそく真似をしていました。

 さて、いよいよ一番楽しみだった「いただきます」へ。一瞬の静けさの中で、無心になって食べている姿が何よりおいしかった手応えを物語っています。私も少し分けてもらいましたが、歯ごたえと野菜の甘みがすばらしい! そして、作っていたときにはちらほら聞こえたはずの「なすび苦手」「トマトきらい」の声はどこへやら……残食はもちろん皆無でした。

 子どもたちが感想を述べ、片付けをして解散。双方の子どもたちのほころんだ表情と、小学校へ戻るお姉さん・お兄さんを見送ろうと、自然と足が動く5歳児の様子からは、今日の活動が子どもたちにどのように根付いたか、その手応えが自ずと伝わってきました。
 子ども達はその後、今日の活動をどのように振り返り、自らに取り込んでいくのでしょうか。
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 仮に、知らない2人が「仲良くしなさい」と正面からただ求められたとします。そこでどうふるまうかは、私たち大人にとっても簡単ではないでしょう。いっぽう、五官が刺激される食を介した実践は、そこに参加する子どもたちの間に、前向きな姿勢をともにする経験を無意識のうちに可能にします。ことばを越えて直接子どもに働きかけることを可能にする、「食」のもつ力を改めて実感することができました。

 非日常の空間の中で、子どもたちが思わず前のめりになれる教材を選ぶこと。それを、時間的な自由度を一定程度担保したうえで実践すること。
 そのことは、普段はともに過ごすことのない子ども同士をつなぎ、日常の生活とは異なる、意外な姿を子ども達が見せてくれる一つのきっかけになりえるでしょう。

 「小学生が幼児に教え、幼児は就学後に困らないようにする」定型的な「連携」像を超えて、日常とは異なる「ハレ」の場面としての交流活動を通じ、大人の想定を上回る子どもの多様な姿を引き出す。
 それは、今後の日常における子どもの姿の変化の見通しを可能にするとともに、それに合わせてこれからの日常の学校生活・園生活等における、私たち大人が子どもへ働きかける際の新たな手がかりを見出すことへと結びつくはずです。

 「連携」の新たな可能性を示していただいた実践を、おいしく味わうことができました。ありがとうございます。
 今後の展開を、ますます楽しみにしております。

6/25/2013

家庭裁判所にて考えたこと(松本)

 高松家庭裁判所にて、調査官のみなさんの研修会に講師としてでかける機会をいただきました。
 主に話をさせていただいたのは、3歳頃から学童期の子どもたちの発達と、そこから考えられる親子関係のありようについてです。

 調査官の方々が取り扱われる大切な問題の一つに、いわゆる離婚に関わる紛争への対応、ということがあります。
 もし、そのような問題と直面したとき、幼児期から学童期の子どもは何を感じ、考えるのでしょうか。

 もちろん、両親の紛争が即、直線的に子どもの発達にマイナスの影響を及ぼすとは言えません。
 事情はそれぞれ。多様なケースがあるでしょう。

 いっぽう、両親のそのような姿を目にした子どもが、たとえば「お父さんとお母さんが仲が悪いのは自分のせいだ」のように考えてしまうことがある、といったケースも少なからず耳にします。
 なぜ、そのような思いがめばえることがあるのか。
 幼児期後半、5歳後半ころからは、言語的思考の深まりに伴い、子どもなりに自分自身を見つめ始める時期であることが知られています。ただしいっぽうで、このころから学童期前半までは、たとえばそれを他児の家庭環境と比較するなど、相対化して把握するための抽象的な思考力は未発達の時期です。
 自分を見つめる視点は獲得されはじめるが、いっぽうでそれを、周りとの関係の中で把握することはまだ難しい。そのような発達的特徴が、大人の態度の変化を「私の何かが悪いのかな?」と捉えてしまう思考として、ときに表れることがあるのでしょう。

 そうなったとき、子どもが自らの力だけで視点を変えることは容易ではありません。そんな場面で、ニュートラルな立場から、「悪いのはあなたではないよ」というメッセージを、誰がその子に届けることができるか。
 近年、たとえば小学校の先生方は、保護者の様子をはじめとする、家庭の状況を掴むことが難しくなっているということを耳にします。
 そんな現代の状況を考えたとき、子どもにフェアなメッセージを出せる貴重な大人の一人として、家庭裁判所調査官のみなさんの役割は、よりいっそう大切になっているかもしれません。
 熱心な調査官のみなさんとやりとりしつつ、そんなことを考えました。
 
 考えてみれば、裁判所に足を踏み入れたのは、子どもの頃の社会科見学以来かもしれません。
貴重な経験と考える機会を与えていただき、ありがとうございました。
 私自身も、もう一歩深めて考えていきたいと思います。

6/12/2013

芸術士と、運動会と、カンボジアと(松本)

 先日の記事で触れました、保育所・幼稚園に派遣されている芸術士のみなさんとのミーティングの様子について、以下の芸術士のウェブページでも紹介いただきました。

http://geijyutsushi.archipelago.or.jp/?p=2877

 保育における「運動会」のことを考えるとき、青年海外協力隊員として、カンボジアの保育現場で運動会にチャレンジした教え子、むぅさんのことをいつも想い出します。
 走る、とはまっすぐ走ることだけではなく、いろいろな楽しみ方がある。「遊び」の先には学びがめばえることを伝えたい、何より体感してほしいと考えたとき、きっと「運動会」というイベントを工夫することが最適の教材だったのだろうなと。
 ここからは、保育における「遊び」と「学び」の特殊な関係を乗り越えるうえでは、大人から子どもへのダイレクトなメッセージではなく、教材や活動の工夫が鍵となることを改めて学ぶことができるように思います。

 そういえば、彼女が学生時代、グループで取り組んだ卒業研究は運動会を扱ったものでした。人生、どこで何がつながるかわからないものです。

 カンボジアでの彼女の奮闘の記録は、岐阜県の「ぎふ国際協力大使からの便り」のページから読むことができます。よければ、こちらも、ぜひ。(No.9より前のあたりです。)
http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/kokusai-koryu/koryu/jica/kyoryokutaishi/

6/09/2013

手が届きそうな「保育づくり」を目指して(松本・松井)

 少し時間が経ってしまいましたが、日本保育学会第66回大会(2013.5.11-12. 中村学園大学・中村学園大学短期大学部)にて、附属幼稚園の先生方と一緒に、以下のタイトルで研究発表をしてきました。

松本博雄・松井剛太・西宇宏美・九郎座仁美・水津幸恵 2013 幼児の学びから立ち上げる計画と保育づくりに関する研究 ―ラーニングストーリーを試行して― 日本保育学会第66回大会発表要旨集, 597.

 幼稚園や保育所における保育実践は、教科ではなく「領域」という枠組みを用いて、「遊びを通じての総合的指導」による学びの成立を目指す営みであると言われます。よって、“よい”保育実践とは何か、言い換えれば保育の「質」を検討するうえで、「遊びの質」とそれを介して生じる子どもの経験を問うことは欠かせませんし、そのための具体的な手立ては、保育をつくるうえで必須のものとなります。
 いっぽう、この種の問題を考えるうえでもう一つ鍵になるのが、保育実践とは、非常に多くの保育者によって担われているという事実です。つまりそれは、力量ある一部の実践者が担うことのできる“正しい”手立てを追求すること以上に、多様な保育環境を背にしている保育者が、ひとりでも多く実践できるような手立てが求められるということに結びつきます。
 そのような観点をふまえ、今回の報告では、ニュージーランドで用いられている「ラーニングストーリー」を参考にアレンジした方法で、私たちなりの保育づくりのありようを考えてきました。
 保育の記録と計画において、世界的に見れば「個」の変化に焦点をあてたそれが多いいっぽう(ラーニングストーリーもその例外ではありません)、「クラス」を単位としたそれが積み重ねられてきた歴史があるのは、日本の保育の特徴ではないかと思います。これらをどのように交錯させていけるのか。さらには私たちのこれからの保育にどのように結びつけていけるのか。研究グループの課題として、引き続き検討していきたいと思います。

6/01/2013

子どもの「発見」を支える(松本)

  昨日、NPO法人アーキペラゴにて、芸術士の方々とのミーティングにお邪魔してきました。
  「芸術士派遣事業」とは、香川県高松市の事業として委託を受けたNPO法人アーキペラゴから、市内の保育所・幼稚園・こども園等に定期的に派遣されるアーティストが、保育者とともに保育をつくる活動で、2009年より実施されています。
  詳しくは次のWebpageを参照ください。

  芸術士の大切なミッションは、保育をつくるとともに、子どもの姿を記録する「ドキュメント」を作成すること。
  よく伸びる紙粘土で遊んだある日の、次の一枚をご覧ください。



  ハサミがなかったから、鼻と口の間で「半分こ」した4歳児のYちゃん。
  仮に「何で?」「何のために?」何て聞かれようものなら、きっと本人だって絶句しちゃうにちがいないけれど、子どもを導くという使命感の中での、できるーできないのまなざしからは見えにくい何かを取り上げてもらい、ちっちゃな発見の背中を押してもらえる人生は、「豊かさ」そのものだろうなと実感します。

  保育の原点は遊び。遊びとは楽しいもの。
  楽しさの中で発見できた経験は、自ずと次の発見と探求につながっていく。
  そんな魅力に、改めて立ち返らせてくれる芸術士派遣事業の取り組みを、これからも応援していきたいと思います。

5/29/2013

1〜2歳児の自己主張は、他者とぶつかってこそ豊かになる(松本)

 月刊の保育雑誌「ちいさいなかま」(ちいさいなかま社)7月号(591号)に、上述のタイトルで小論を書きました。

 1,2歳児で目に付く「自己主張」。それは、これからを見通す力である「表象」とそれを保持する「記憶」が育まれたからこそ成立する力です。
 当然ですが、子ども自身のもつ見通しは、大人のもつそれと重なることも、重ならないこともある。そう考えると、自己主張の機会が存分に保障されているときには、必ず、大人の望む方向とは異なるそれが伴うはずでしょう。

 いっぽうで、子どもの自己主張を正面から受けとめるのは、なかなか苦しいのも事実です。
 では、どうすればよいか。
 強い自己主張を表に出すとき、子どもはどんな気持ちを抱いているかに思いを馳せることが、それを考える手がかりになるように思います。
 
 自分の世界と相手の世界の区別をつける土台ができるのは、おおむね2歳を過ぎた頃。
 その頃の子どもは、強く自己主張しつつも、もしかすると相手の思いを、頭の片隅に感じ始めているかもしれません。
 でも、子どもなりに相手の思いを感じつつ、気持ちの折り合いをつけて決断するには、時間がかかることもある。むしろ、相手の「正しさ」を感じればなおのこと。
 自分なりに考え、葛藤し、決断するために時間が必要なのは、子どもも、大人も、同じではないでしょうか。

 道すじを示し、導くだけではなく、前向きに葛藤できる時間と、そうしたくなる空間をつくること。
 「自己主張」を「支える」というパラドキシカルな問いは、保育や子育てにおいてよく眼にするいっぽうで、探りがいのある課題だと改めて感じました。

 拙稿が掲載されている雑誌『ちいさいなかま』7月号(360円と廉価!です)の特集は、“自己主張? わがまま?”
 興味がありましたらぜひ、他のみなさんの保育実践や投書とともに、ご覧いただけると嬉しいです!

5/08/2013

「2つの時間」のもつ意味:ベイトソン『精神の生態学』から(松本)

 以前の記事でも書きました、同僚の先生ほか研究者仲間と7月から月1回のペースで読んできた、ベイトソン『精神の生態学』の読書会が先月、完結しました。松本・松井・常田も参加していました。

 学べた点、今後の研究ほかのアイデアに活かせそうな点は多岐にわたるのですが、なかでも特に印象に残ったのは、生物の進化を考える際には、単線的なそれではなく、2つのレヴェルの時間を設定する必要がある、という点です。

 生物がその姿を変化させるとき、一般に考えられるありようは次の2つです。
 一つは、一生を通じて非可逆的、すなわち元に戻れないタイプの変化。これは、遺伝子レヴェルのものとみなすことができます。
 もう一つは、可逆的な、つまり環境に合わせて選択できる変化です。これは、体細胞レヴェルのものとみなすことができます。
 これら2つの変化を「効率」という面に照らし合わせれば、有利なのは前者、すなわち遺伝子レヴェルの変化です。「その場に合わせて調整する」プロセスを常に必要とする後者に対し、前者においては、想定できる状況や環境に合わせた構えがあらかじめプログラムされているわけですから。

  しかし一方で、遺伝子レヴェルの変化では対応できない状況があります。
  それは、「あらかじめ想定されていた状況や環境」が、何らかの理由で急激に、とても大きく変化した場合です。 
  そのような状況は、一つの有機体の過ごす時間(つまり、80年とか90年とか)の中では出会わないことが多いかもしれません。
 しかしながら「地球」という時間から考えてみると、歴史は私たちに、そのような「急激で大きい変化」に出会わざるを得ない瞬間が、一定の間隔で訪れることを教えてくれます。
 そのとき、ヒトはいかに振る舞えるか。想定できる環境に合わせることを最大限の効率で追求し、それを非可逆的なプログラムとして自らに書き込んでいたならば、「急激で大きい変化」はまさに「想定外」のものとなる。ヒトがもし、遺伝子レヴェルの変化しかもっていな生物であったならば、環境の激変についていけず、みな滅んでしまっていたかもしれません。

 ヒトという種が、なぜ生き残ってきたのか。
 わたしたちの先人は、今、目の前の環境にまったなしに適応して振る舞うことだけを追求してきたのではなく、最大限の効率はちょっぴり犠牲にしても、自らの構えをひとつに決めてしまうことなく、その場に合わせて自分なりに調整するプロセス、すなわち個々の個体が主体的に選択し、生きる余地を残してきたのでしょう。

 私たちが今生きているのは、おそらく、先人がそういった道を選んでくれたからこそ。
 歴史をふまえ生きていくとは、そのような道のりに思いを馳せることではないかと思うのです。

   短いそれと長いそれ、2つの時間を考えながら、ヒトは生き残ってきた。
   保育や教育の中で、そのことの持つ意味を改めて考えていきたいと思います。

4/03/2013

明後日の美術館、明後日の子ども(常田)

香川県立ミュージアム平成25年度特別展「たのしむ日本美術」関連事業『チルドレンズ・デー(仮)』の打合せに行ってきました。



今年秋に香川県立ミュージアムで開催される「たのしむ日本美術」は、”生活の中の美”をテーマに、桃山〜江戸時代の絵画や陶磁器、漆器、和ガラス、染織など、暮らしの中に息づいてきた名品を紹介する展覧会です。

この展覧会の会期中に実施される『チルドレンズ・デー』は、美術館を子どものために一日開放し、子どもの視点に立った展示物の紹介やプログラムを企画して、子どもたちにもっとアートに親しんでもらおうというものです。子どもの美術館デビューを応援する企画と言えるかも知れません。

今回私たちは、乳幼児期の子どもの特徴をふまえて、この時期の子どもたちが一番楽しめるプログラムになるよう、企画のお手伝いをさせていただくことになりました。名品といわれるものは、たとえそれに関する知識を持っていなくても、何かしら私たちに訴え語りかけてくるインパクトを持っています。それはきっと子どもたちにも伝わるはず。日本美術の名品に出会った子どもたちの中にどんな化学反応が起こるのか、とても楽しみです。




ところで、このうち合わせ中に「明後日の美術館」というキーワードが出てきました。今日ではなく明日を見据えて仕事をするというのは、よく聞く話ですが、これからの美術館は”明後日”を見ていかなければならない。つまり、一歩先だけでなく、そのずっと先にあるであろう私たちの社会という視点から美術、あるいは美術館という媒体を考えていくべきだという考え方なのだそうです。

よく考えてみれば、子ども自身が明後日のものだと言えるかも知れません。私たちの一歩先を軽々と超えて未来への可能性を拓いていく子どもたち。子どもとアート/美術の間には深い共通点がありそうです。

そして本来は、研究者も、明日ではなく、明後日を見て研究を進めていくべきなのかも知れません。「大学は百年先を見て動くもの」という言葉をどこかで聞いたことがあります。明日の成果も大切ですが、百年先の子どもたちにも幸せを届けられるような、そんな仕事をしていきたいです。

4/02/2013

3歳児のいいところミッケ!(松本)

 新年度が始まりましたね。
 新鮮な日々を味わう一方で、でもちょっぴりふわふわ、そわそわした日々を送られているみなさんも多いのではないかと想像します。
 新しい出会いは、楽しみでもあり、不安でもある。
 私たちは0歳の頃から、そのレヴェルは違えども、同じ問いを前にし続けているのかもしれません。

 さて、表題の件です。
 12/30の記事でお伝えしていた、3歳児の保護者向け冊子が完成しています。3月中旬にできていたのですが、お知らせが遅くなってしまいました。

 香川県内で3歳児の子育てまっただ中の保護者のみなさんには、保育所/幼稚園経由でお手元へ届くはずです。
 それ以外のみなさんは、香川県教育委員会のページ内にある以下のリンクから、全文を読むことができますので、よろしければ眼を通していただけると嬉しいです。

http://www.pref.kagawa.jp/kenkyoui/syogaigakusyu/characteristic/katei/site/3saiji/index.html

 プレゼントとしての言葉を、少しでもお届けできているか。
 委員や事務局のみなさんと力を合わせて、類書とは一味違うものに仕上げるべく力を尽くしたつもりですが、もし、この冊子が3歳児との豊かな時間をつくることに少しでも寄与できるならば、とても嬉しく思います。

 冊子の中身に触れつつ、いくつかの場所で話をさせていただく予定です。
 機会がありましたら、コメント、感想等をお寄せください!

3/16/2013

信頼関係を結ぶとは?:とある保育園のお話(松本)


 初めての地への転居は、誰でも不安がつきもの。何とか引っ越しも終え、新しい保育園が決まったMさん、3月下旬のまだ新しい町のこともわからぬその日に、娘たちを連れてまずは保育園の見学に出かけました。
 一通り遊んで、帰り際に「よければ、また遊びに来てね」と声をかけてくれた園長先生。社交辞令かな、と思っていると、「もし来られるならば、○時ころに保育が始まるので……」と言葉が続く。え、入園前なのに本当に出かけていいのかな?  でも、見知らぬ土地でのそんな心配りがとても嬉しかったMさん。これは幸いと、3月の残り数日、毎日のように午前中、入園予定の子どもたちを連れて保育園に出かけました。その甲斐あって、子どもたちは園に、Mさんも少しずつ新しい町に慣れてきました。

   そして、明日がいよいよ正式の入園という3月31日、この日の4歳児の活動はクッキーづくりです。
   クラスの子どもたちは、お昼寝の間に給食室で焼いてもらい、おやつに自分で作ったクッキーをいただきます。
   でも、Mさんの長女Tちゃんはまだ正式の入園前。お昼ご飯前に帰らねばならず、おやつの時間までいることはできません。
   「Tちゃんの分、とっておかなきゃね」とさらっと口にした主任のK先生。でもまさかねぇ…入園もしていないのに仲間として一緒にクッキー作りまでさせてもらい、ちょっと気を利かせてなぐさめの言葉をかけてくれただけでも十分と思っていたMさん。K先生の何気ないひとことを、そのときは特に気にもとめませんでした。

  明けて4月1日、いよいよ入園の日がきて、Tちゃんは5歳児クラスに加わりました。
  この日に、Tちゃん、そしてMさんが一番驚き、嬉しかったこと。
  その日のTちゃんのおやつには、みんなと同じおやつに加え、K先生の言葉どおり、一人だけ昨日のあのクッキーが添えられていたのです。
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  同じように配慮する、とは、誰もに同じオヤツを出すことではなく、それぞれの立場に思いを馳せて、誰もが気持ちよく、日々を豊かに過ごせるよう支えること。
  信頼関係とは、特別ではない、そんなあたりまえの積み重ねの先に結ばれていくことを、このエピソードは改めて私たちに教えてくれるように思います。

  2年前の春、とある保育園で本当にあった話です。

3/13/2013

たかまつ地域のみんなで子育て新聞 vol.6 発行になりました(常田)

「たかまつ地域のみんなで子育て新聞 vol.6」が発行になりました。
そろそろみなさんのお手元に届いた頃ですね。

子育て新聞は今回が最終号です。

1年半の期間、子育て新聞に関わらせていただいて、さまざまな地域を取材し、地域づくりに尽力される多くの方にお会いすることができました。
安全・安心な街、整備された公園、清潔な街…どれも私たちにとって大切なものばかりです。でも、私たちは普段、それを作ってくれている「誰か」のことは忘れています。
「たかまつ地域のみんなで子育て新聞」では、そんな私たちの生活を陰から支えてくれている人や活動について、できるだけその人たちの顔や思いが見えるようにお伝えしてきました。


『恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!』

これは、2000年に松山21世紀イベント委員会が開催した「だから、ことば大募集」というイベントで松山市長賞を受賞し、 その後「この街で」という歌にもなった詩です。こんなふうに思える故郷があるのは本当に素晴らしいことです。そして、そんなふうに人々に思わせる街には、必ずその街の魅力を作ってくれている「誰か」がいます。


「地域づくり」「地域参画」などと言うと難しいことのように感じてしまいますが、実は、私たちが大好きなこの街の魅力を作ってくれている「誰か」に思いを馳せることが、すでに地域づくりの第一歩なのですね。
『恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!』
そんなふうに思える街を子どもたちにプレゼントできたらステキだなと思います。

3/02/2013

乳幼児期の豊かさとしての“ムダ”(松本)

前回の記事で触れました、香川大学メールマガジンに載せた記事について再掲します。
旧ブログでは載せましたが、考えてみればこちらには載せていなかったので…。
昨年4月に書いたものです。

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 ある教え子から聞いた、彼女が4歳頃の思い出です。

「……幼稚園のテラスの水道で友だちと2人で手を洗っていたときに、突然友だちが『私、石けんで顔を洗っているときに目、開けられるよ!』と言って実践してくれたのを覚えています。それを見た当時の私は衝撃と感動でいっぱいになり、その日帰ってから練習したのを覚えています。……今考えるとマジでどうでもいいことですけど、当時はかなり重要な使命に思えていたみたいです。……」

 幼児期のうちに「石けんで顔を洗うときに目を開ける」技ができないと、大人になったときに困ったり、逆にそれを身につけると、これからの人生がすばらしく切りひらかれたりするでしょうか。もちろん!そんなことはないでしょう。
 
 考えてみれば、乳幼児の行動は、大人の視点から見れば「ムダ」に見えることだらけです。いっぽうで、そんなことに熱くなり、夢中になれるのはこの時期ならではでしょう。タンポポを見つけて目を輝かせ、石ころ集めに熱中し、ちょっと高い崖から飛び降りるチャレンジに胸をどきどきさせる……いずれも将来“役立たないこと”だらけですが、逆説的にいえばそんな行動に夢中になれること自体が、加齢に伴い見えなくなってしまう、乳幼児期の本質と言えるかもしれません。


 「ムダ撲滅」に代表されるような、有用性=役に立たねばならないという圧力の強い昨今です。子どもの立場から言えば「これから社会に出たら困るでしょ!」というプレッシャーにさらされ続ける日々のようにも思います。しかしながら「役に立つ」という概念は、実はとてもゆらぎやすいものです。誰にとって、何のために役に立つか、立場によってその答えは異なります。そして、いずれの立場から語るにせよ、「役立つことがわかる」と事前に判断できるのは、問いや目的が既に自明である場合においてのことでしょう。

 「未曾有の災害」という言葉が使われて1年が過ぎました。私たちは生きる中で、問いや目的が事前に与えられているケースばかりに遭遇するわけではありません。よく発見・発明は「ムダ」から生まれると耳にします。それはなぜか? 実はヒトが新たなものを生み出し、前に進むためには、問いや目的がみえない中で「ムダを重ねる」時間こそが鍵となるからでしょう。

 自明の問いを短時間でいかに効率よく解決し、目的へ至るかという目に見えやすい力だけではなく、新たな場面で、問いや目的そのものを編み出す力をいかに育むか。乳幼児期に“ムダ”な時間を保障することは、ヒトという種、そして私たちの社会が希望をもって新たに歩むために欠かせないことのように思います。微力ながらその手がかりとなることを願いつつ、乳幼児の発達研究に尽くす毎日です。


2/28/2013

保育において「遊び」「ムダ」が必要な理由(松本)


広島県三次市と、鹿児島市保育園協会から「現代と保育」での連載をご縁に声をかけていただき、立て続けに講演に出かけてまいりました。
私の知らないところで、原稿を丁寧に読んでいただいているみなさんがいる!と思うと張り切って準備し臨むのですが、何と言いますか、張り切りすぎると空回りしますね。もし、十分お伝えできていなかったら、ごめんなさい。力不足をお詫びします。次、頑張りますね。

さて、どちらの講演でもさわりは、以前、大学メールマガジンに書きました拙文「乳幼児期の豊かさとしての“ムダ”」を引用してみました。
話の途中で、またその前後に現場で奮闘されている先生方からあれこれ楽しい話を伺いながら、そこでふれている、保育においてはなぜ「ムダ」を大切にする必要があるかという問題を改めて考えてみました。

ふと思い浮かんだのは、先日私の所属先である、香川大学教育学部幼児教育コースの卒業研究発表会の講評で話した、研究成果は書き手それぞれのもののようにみえるけれど、それは本当は、次に続く人たちへの贈り物である、というコメントです。
そのときは、学生達の発表を聞きながら何の気なしに口をついたのですが、今振り返ってみれば、このことは何のために保育をするのか、という話とも結びつく気がします。

保育や教育は、何のために必要なのでしょうか。
ふつうの答えは、もちろん、当該の子どものため、なのですが、少し見方を変えれば、それは子どものためを超えて、私たちの社会の未来のために行う営みとして考えてもよいように思うのです。

講演の前に、噴煙立ち昇る桜島に案内いただき、大噴火によってできた、溶岩流の跡をみました。
近いうちに訪れてほしくないけれど、地球の歴史を考えるといつかは訪れるはずのその日。
大人の言うとおりに、右向け右で同じ方向へ向かう子どもを育てれば、大いなる力を前に私たちの社会は滅んでしまうかもしれません。

もちろん、保育や教育は、その時点でよかれ、ベストと思われる方法で子どもと向き合う営みのはずですが、人間は生きていく上で、その判断を間違うこともあります。それは、これまでの歴史の中に、既に物語られているはずです。
いっぽうでこれまでに、大人が指し示す方向・方法だけではなく、自分で考え、時にそれと異なる方向・方法を目指し、編み出せる子どもがいたことも確かでしょう。そのおかげで、ヒトの社会は大災害をも乗り越え、ここまで引き続いてきたのですから。

大人の示す規範に聞き分けよく従うだけではなく、自ら判断し、クリエイティヴにふるまうこと。
保育において遊びやムダが大切であるのは、そんな理由とも深く関連すると感じました。

歴史を尊重し、未来に向かうとは、自然への畏怖との関係で語るべきものと思います。
考えるきっかけを与えていただいた先生方、ありがとうございました。

2/16/2013

「心のケア」モデルから「参加主体」モデルへ(松本)


 後期の定時授業もひととおり終了(なのになぜだか追われる日々ですが…)
 教育学部「児童心理学」の最後の授業で、少し時間が取れたので、国際NGOである Plan Japan の東日本大震災緊急・復興活動支援報告と、その際の活動をふまえて作成された、世界保健機関(WHO)作成のPsychological first aid: Guide for field workersの翻訳縮刷版「被災者の心を支えるために:地域で支援活動をする人の心得」を配布させたいただき、ポイントについて話をしました。
  Plan Japanの活動の詳細は以下を参照ください。

  ページの左側に、東日本大震災活動報告をはじめ、その他「世界の女の子に、生きていく力を。」プロジェクトの詳細等への入り口があります。

 私自身は、心理学関係の研究会でご一緒させていただいている、山形大学の上山眞知子先生を介し、東日本大震災におけるPlan Japanの活動を知りました。
 重要な点はもちろん、たくさんあるのですが、共通するのは「支援される者ー支援する者」という関係が固定してしまうと、いずれひずみが大きくなったり、うまくいかなくなったりする。
 そうではなく、復興そして日常における主体者として動けるチャンスを作ること。
特に子どもは、一般的にはケアされる側ですし、特に初期ケアがポイントになるのですが、一方で日常を取り戻していくプロセスにおいては、その発達そのものが家族や、コミュニティを変えていく力を果たしうる。
 先に述べたWHOのPsychological first aidでも、従来の、いわゆる弱い立場の被災者をどうケアするかというモデルから、主体者としての力を引き出す場を作るという支援の方向へと変わってきているそうです。

授業ではあまりうまく伝えられた気がしないのですが、一つでも、受講していたみんなと何かをシェアできていればいいなと思っています。
 もちろん、ここで学んだことが役立つ日が訪れないことが、最もいいことなのですが…。

 資料を素早くお送りいただいたPlan Japan の皆様と、教えていただいた上山先生に改めて感謝申し上げます。
 ありがとうございました。
 またさまざまな機会をつくり、紹介させていただきたいと思います。

1/27/2013

子ども間の「協同」を支えるモノの分析(松本・松井)

 年明けから走りっぱなしでようやく一段落です。
 その間に、以下の論文が掲載された「保育学研究」(日本保育学会発行)が届いていました。

松本博雄・松井剛太・西宇宏美 2012 幼児期の協同的経験を支える保育環境に関する研究:モノの役割に焦点をあてて 保育学研究, 50(3), 53-63.

 幼児期の協同的な経験を促す保育環境づくり、別の言い方をすれば、友だちと一緒に取り組んだ経験が、次の「もっとやってみよう」という思いへと結びつくにあたって、保育における「モノ」がどんな役割・機能を果たしうるかを分析しました。

 取り上げたのは、香川大学教育学部附属幼稚園の3歳児クラスと4歳児クラスの事例。
 3歳児では、廃材を用いた製作がクラス全体に一挙に広がるプロセスでの、保育者による援助の内容とタイミングが秀逸です。
 4歳児では、「かまぼこ板」の積木を使って、「それ、ビー玉は絶対転がらないしょ」という難しいコースづくりだからこそ全力投球する姿に、この時期ならではの世界を改めて感じることができます。

 論文本体以上に!?、本文中の実践記録が魅力いっぱいです。
 実は、この面白さを多くのみなさんに伝えたい!という一心でまとめたようなものです。

 学術論文ということで、大学図書館経由での入手になると思います。
 入手が難しいけれど、興味をもっていただける方がおりましたら、松本・松井宛メール、コメント等で連絡いただければ幸いです。抜き刷り等をお送りしますね。

1/17/2013

本年もよろしくお願いします(松本)

 新年となってから既に半月が経ってしまいました。
 今更ですが、本年もよろしくお願いいたします。

 ここしばらく感じていることですが、教育や保育、子育てを語るうえで、立場を問わず、現状に対するネガティブな言説がとても多いな、と。
 「子どもが育ちにくい現代……」をはじめ、たとえば「教育再生」という言葉などはその最たるものの一つでしょう。そこには、なんだか現状はよっぽどまずくて、何かそれを根底的に覆す解決策が必要だ、という、一見美しい流れが想定されているように感じるのです。

 でも、少し考えてみれば、一般に、何かがきれいに解決されるようにみえるソリューションも、それをすることで失ったり、別の何かを生んでしまうということを、必ず伴うはずです。
 いろいろな要素と情報、価値が絡み合った私たちの生きる社会は、「問題」そのものの成り立ちも、どこかの敵をやっつければ済む!というような一面的なものではありません。リーダーによる鶴の一声で解決するように見える問題は、それがなくても解決する程度の問題だったか、新たに別の問題を生むか、どちらかと言っては言い過ぎでしょうか。
 ある症状に良く効くように見える薬は、別の症状を誘発する(=副作用)ことがある。
 このことは、教育や保育、子育てに限らず、もっと広い場面で言えることでしょう。

 魔法はありません。でも、できることはきっとあります。
 先日の記事に書いたように、時間をかける中で、少しずつ見えてくる何かもあるでしょう。
 私たちも、子どもや保育、子育てを支え、背中を押せる研究を、「楽しさ」をキーにより進める一年にしたいと思います。